「二階の住民よ。金ちゃんがこの家を買い取る前から棲みついている古株なの。」

お福の言葉に、蔵之介は全身を脳みそにして考えた。
二階は別の人に貸している、ということであれば不動産屋から当然話はあるはずだ。確かに、店の準備をしているときに、二階で軋きしむ音が聞こえたり、紙を裂くような音が聞こえたり、何か気配を感じるようなことは、何度かあった。
しかし、だからといって、誰かが棲んでいる、という発想には至らなかった。

「もしかして・・・それは・・・――いわゆる、幽霊というやつ…?」

するりと軽やかな足取りでお福が階段を昇っていく。それを追うように蔵之介は階段を軋ませながら二階へと上がった。

「幽霊・・・、なんだか、文学的じゃないわねえ。」
「別に俺は文学者じゃない。」

お福が立ち止まったのは、書庫よろしく本棚が並ぶ通りに面した部屋の前だ。


「人ならざる者、人でない者、つまり我々は“人でなし”だな、お福。」


襖の向こうから、年配の男の声がした。

「言えてるわあ、さすが、アガサセンセ。」

蔵之介が勢いよく襖を開くと、窓に面した文机の前で胡坐あぐらをかいて腕を組む男の後ろ姿があった。


「誰だ、あんた!」

「誰だと聞かれれば、かの江戸川乱歩と肩を並べる文豪、阿嵩栗栖(あがさくりす)と言う。」

阿嵩は尻を軸にして、胡坐を掻いたままぐるりと蔵之介に向き直った。
紬つむぎの着物に羽織がよく似合っている。日本の文豪一覧に乗っていてもおかしくはない風貌である。

「自称文豪。」

お福がこっそりと耳打ちした。

「金さんから話は聞いているよ。」

「爺さん?」

「ちょっくら浄土に遊びに行くから、もし孫が来たら、頼むってね。」

阿嵩は煎餅布団を二枚投げて寄越した。
蔵之介は何から言及すべきか悩んだ。なぜ、祖父は、蔵之介がこの店に来ることを予想していたのか。
ここまではっきりと会話をし、存在を認識している目の前の男は、一体何者なのだろうか。
そもそも幽霊というものは存在するのだろうか・・・。

だが、どれも質問にするには、くだらないことのように思え、――というより、納得のいく答えは返ってこないだろうと思い――蔵之介は今のところ一番気になるところを訪ねた。

「江戸川乱歩が、エドガー・アラン・ポーの名前をもじったというのは有名な話だが、阿嵩栗栖という名前はもしかして、アガサ・クリスティの名前を?」

「その通り。エドガー・アラン・ポーよりもアガサ・クリスティの方が、ミステリー小説の執筆数はるかに多いからね。」

蔵之介は、熱心な読書家というわけでもないし、ミステリ愛好家というわけでもない。
一般的な知識の限りでは、阿嵩栗栖という小説家を聞いたことはなかった。

「ちなみに、主な作品は・・・?」

「“F坂の殺人”“路地裏の散歩者”“白蜥蜴”などなど。」

「・・・・・・。江戸川乱歩の作品にも似たようなものがあったような・・・。」

む、と阿嵩は唸るような声を漏らし、腕を組み直した。

「もじり詩というのも、立派な文学のひとつだと思うがね。江戸時代の粋な者たちが短歌をもじった狂歌というものを楽しんだという。
それこそ、今では“ぱろでぃ”と言われて、ひとつの文学形式にもなっているじゃないか。当時認められなかったのは、私は、少しばかり先を歩きすぎたということだろう。」

阿嵩は自分の言葉に納得したように、何度も首を縦に動かしている。

「そう、阿嵩栗栖という名前も壁だったな。ある出版社では女の作家は受け付けないと言われ、またある出版社では女の作家かと思ったら男の作家だったとがっかりされた。」

「出版社は、断る理由を探していただけじゃない。」
茶化したようにお福が言った。

「どこかに掲載された作品はないのか?」

「あるわよお、たったひとつだけ。アガサセンセの遺作となる“そして誰もが戻ってきた”」

蔵之介は本棚に視線を向け、外国小説の中に堂々と並んだ、アガサ・クリスティの代表作『そして誰もいなくなった』に目を留め、肩を竦めた。

「でも、パロディは確かにひとつのジャンルとして確立していると思う。文学作品をもじった漫画や、漫画をもじったドラマだって出てくるぐらいだ。内容を読んでないからわからないが、“そして誰もが戻ってきた”なんて民放が喜んで使いそうだな。」

「読んでみた方がいいわよ。」
お福が茶化すように口を挟んだ。
「読まなくていい。高度すぎてお前さんにはわからない。」
阿嵩が遮る。

蔵之介は笑いながら首を振った。

「読まなくても、だいたい想像がつく。途中までは原作と同じように進んでいくけど、実は全員死んでいなかった、とか。もしくは、一家離散になった家庭が元に戻っていくヒューマンドラマとか。・・――どうだい?」

「ぜーんぜん。ふふ、私は結構好きなんだけどねえ。」

お福は阿嵩の言葉に被せて、蔵之介に身を寄せた。
重大な打ち明け話をするように、背中を丸めると、わざとらしく声を潜める。

「なんたって、主人公は屍(しかばね)。」

「シカバネ?死んだ奴が主人公ってことか?」

「そう、主人公は財産目当てで弟に殺された男。彼は同じように現世に悔しい思いを残してきた5人に、無念を晴らそうと呼びかけるの。
黄泉の国の番人を説得し、誰一人欠けることなく戻ること、一人でも欠けた場合は残りは一生生まれ変わることのない地獄へ堕ちるという約束で復活。
それぞれの復讐を遂げて、生への執着心を振り切り、戻ってくるんだけど、約束の時間が近づいても一人が戻ってこない。
諦めかけた時、約束の時間ぎりぎりになって最後の一人が戻ってきたの。黄泉の国の番人はそれぞれの強い意志に感銘を受け、彼らを現世に戻すことにした。
めでたしめでたし。」

お福はまた、くすくすと笑った。
「そうとう端折ったけど」

蔵之介は言葉を探すように視線を彷徨わせた。

「走れメロスと蜘蛛の糸が混ざったような感じだね。でもなんか、ハリウッド映画とかにありそう。」

「かりうど?」お福が首を傾げた。

「ハリウッド。アメリカだよ。」

「亜米利加!」

押し黙っていた阿嵩が唐突に叫ぶ。

「なるほど、亜米利加ほどの大国が好むとは、日本人庶民には少しばかり高度だったということだな。」

阿嵩は急に上機嫌になると、満足げに頷いた。
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